2009年06月29日

環境破壊や地球環境の危機が叫ばれる中

また、環境破壊や地球環境の危機が叫ばれる中、地域ごとの自然保護や環境保全においては、そのような知識を持った人材の活用が不可欠であるため、パラタクソノミストと呼ばれる職業的、あるいはボランティア的に博物学的な仕事をする専門家の育成が叫ばれるようになってきている。

日本では奈良時代以来、本草学に関する書物が読まれており、10世紀には『本草和名』という、本草の和名を漢名と対比した書物が編纂された。江戸時代には1607年の『本草綱目』の輸入をきっかけに本格的な本草学研究が興った。林羅山は1612年に『多識篇』を著わし、『本草綱目』を抄出した。以後さらに研究が進められ、『大和本草』(1708年)を著わした貝原益軒や、田村藍水などの著名な本草学者が出現した。稲生若水は1738年に『庶物類纂』を編纂した。藍水門下の平賀源内は物産会を開いた。また、石綿や、いくつかの鉱山を見つけた。
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魚介類・鳥類・植物などを図鑑としてまとめる作業は、大名などのあいだで流行し、極密の魚介図譜・禽獣図譜などが作られた。これらの多くは、美術的にも評価が高い。

その後杉田玄白らによって蘭学が成立すると、ヨーロッパから渡ってきた博物学書の翻訳が行われた(翻訳自体は、その一世代前の野呂元丈がすでに行っていた。ただしそれは一般に広まらなかった)。大槻玄沢や司馬江漢がオランダ渡りの図鑑をいくつか翻訳して公刊した。博物学的知識は実用可能である上に、当時の幕府が危険視するような思想的背景が薄いため、かなり早くから流入し、本草学にも影響を与えている。

2009年06月12日

肝性脳症(かんせいのうしょう、hepatic encephalopathy)

肝性脳症(かんせいのうしょう、hepatic encephalopathy)とは、肝臓の機能低下による意識障害である。別名を肝性昏睡(かんせいこんすい、Hepatic coma)とも、また門脈体循環性脳障害とも言う。肝硬変が進行した場合や劇症肝炎などの重篤な肝障害によって引き起こされる。まれに先天性尿路回路欠損を伴うことがある。
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直接の原因については不明な点が多いが、肝機能低下により血液中にタンパク質の分解生成物であるアンモニアなどが増えることにより引き起こされると考えられている。しかし、血中アンモニア濃度と症状の程度は必ずしも相関しないため、原因はアンモニアのみによるものではないことが示唆されている。アンモニア以外の原因物質としてメルカプタン、スカトール、インドール、単鎖脂肪酸、芳香族アミノ酸などが考えられている。

通常、5段階に分けられる。

I:睡眠リズムの逆転、あるいは周囲に対する無関心など。
II:見当識の障害や、計算、書字などの障害が見られる。羽ばたき振戦(Asterixis, flapping tremor)と呼ばれる、腕を伸ばしたり手を広げたりしたときに、粗くゆっくりとした不規則な震えが起こるのが特徴。
III:ほとんど眠った状態になるが、外的刺激に対しては反応して目を覚ます。ときに譫妄状態になり、暴れたりする。
IV:完全に意識を消失するが、痛みに対しては反応する。
V:すべての刺激に対して反応しなくなる。

内服薬や、特殊アミノ酸製剤などの注射薬で血液中のアンモニア濃度を低下させる。それとともにタンパク質摂取を制限する。また、血漿交換療法や吸着式血液浄化法が行われる。

2009年06月07日

弾丸(だんがん)とは、銃や砲に使用され

弾丸(だんがん)とは、銃や砲に使用され、それらから発射・推進して主に目標に物理的損傷を与えるもの。材質や形状は用途により多岐に渡るが、基本的に鉛合金の弾芯に銅合金の被甲をかぶせた構造である。 英語ではブリット、ブレット[1](bullet [b?r?t])。バレット、ビュレットは不正確。 発射薬(パウダー)や銃用雷管(プライマー)と共に薬莢(ケース)に収められたものは実包(カートリッジ Cartridge)、弾薬(アムニション Ammunition、アモ Ammo)という。

フルメタルジャケット弾(full metal jacket / 被覆鋼弾、完全被甲弾)
貫通性が高い通常の弾丸。弾芯が金属(メタル)の覆い(ジャケット)で覆われているメタルジャケット弾の一つ。
ほとんどのフルメタルジャケット弾は弾芯である鉛をギルディング・メタル(銅95%、亜鉛5%の合金、即ち真鍮)で覆っている。
軍用ライフルでは、目標衝突時の弾頭変形を防ぎ貫通力を高めるため、このフルメタルジャケット弾が使われる。
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メタルジャケット弾にはフルメタルジャケット弾(弾頭を完全に真鍮で覆った弾)とパーシャルジャケット弾(弾頭の先端部分以外を真鍮で覆った弾)があり、パーシャルジャケット弾は目標に衝突した際にメタルに被われていない弾頭先端が変形し破壊力を増す構造で、主に大型動物のハンティング用に用いられる。ハーグ陸戦条約第23条の「不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること」(平仮名訳)への抵触を避けるなどの人道上の理由から、軍用弾にはフルメタルジャケット弾が用いられる。俗称“ボール”(Ball)弾ともいう。
ソフトポイント (soft point)
弾頭先端がギルディング・メタルで覆われておらず、鉛が剥き出しの弾丸。命中すると柔らかい鉛により弾頭が激しく変形・破砕し、運動エネルギーを完全に目標に伝えることにより、致命的なダメージを与える。鉛が剥き出しの弾丸は、連続発射するとその発射熱により鉛が融解してしまうため、現在軍用では狙撃・練習(ギルティング・メタルで覆わない分コストが安いため)など一部用途でしか使われておらず、主に狩猟用として利用されている。
ホローポイント (hollow point)
弾頭が凹レンズのように窪んでいる弾丸。人体等に命中すると先端がキノコ状に変形・拡張(マッシュルーミングという)し、運動エネルギーを効率よく目標に与えることにより、大きなダメージを与える。ライフル弾と比べて圧倒的に威力の低いピストル弾によくみられるデザインである。広義ではダムダム弾もこれに分類される。
なお、ほとんどのホローポイントのピストル弾は、建材等の固い目標に命中すると窪みに目標物が詰り、マッシュルーミングを起さず貫通力が上がってしまうので注意が必要である。
徹甲弾(アーマーピアシング armor-piercing bullet)
炭化タングステンや劣化ウラン合金や鋼鉄などの硬質で比重が重い材料によって弾芯が作られ、運動エネルギーにより装甲を撃ち抜くための弾丸。弾丸という言葉が使用されるサイズの銃では主に高速徹甲弾 (HVAP) が用いられている。
純銀弾(Silver Bullet)

同じような銀色の弾頭には「シルバーチップ」と呼ばれる物が存在するが、アルミニッケル合金を利用したホローポイント弾であり、銀製ではない。通常の鉛銅ジャケット弾頭より軽量化されていて、同じ装薬量でも高速で射出される。
銀の比重は10.49と鉛の比重(11.36)よりも軽く、真鍮系合金より硬度が高く伸展性が低いためジャケットとしての実用性も無い。
ただし、貴重な物質を用いて製造される弾丸には実用性のある物も存在し、高比重のイリジウム(22.50)・白金(21.45)・金(19.32)などを使って通常の弾頭よりも重量を増やして小口径化を図ったものや、高い硬度など優れた特性を持つウラン(19.07)・タングステン(19.30)を用いた徹甲弾や、鉛の中に水銀(13.55)を封入して標的に貫入した際の急減速で鉛を破裂させる弾などが存在する。
照明弾
発射されると強い光を放つ弾丸。夜間戦闘や信号弾に用いられる。通常は照射のために上空に向けて打ち上げられる。星弾(せいだん)、スターシェルとも呼称する。弾丸と呼ばれるサイズの照明弾は信号銃を除いて存在しない。
曳光弾 (tracer bullet)
発射されると後方に光を曳く、弾道を視認しやすくするための弾丸。機関銃などの照準確認用として通常弾とともに用いられる。飛翔距離と共に内蔵した発火薬が減少して軽くなるため、ある程度の距離を飛翔すると通常弾とは違う弾道を描くため、あくまで目安である。また“残弾あと僅か”を確認するのにも使われる。
たいてい5?7発に1発の割合で(残数確認の場合は残り5発程度の部分に)曳光弾が混入される。燃料タンクなどに着弾した場合、ごくまれに発火させる効果もある。

2009年04月24日

択捉島以南(南千島)

1945年(昭和20年)8月14日 - 大日本帝国は連合国に対してポツダム宣言受諾を表明(第二次世界大戦が終結)
日本軍はまもなく武装解除を行った。戦時中、千島列島も米軍機の攻撃にさらされていたが、ポツダム宣言受諾の了解をもって止んだ。ところが、8月11日には北緯50度線国境を侵犯してソ連の赤軍・第一極東軍が南樺太に侵攻、千島列島でも入れ替わるように国籍不明機(実際はソ連軍機)の攻撃を受けた。
8月18日にはカムチャツカ半島のロパトカ岬から砲撃が開始され、同時に、ペトロパブロフスク・カムチャツキーから出撃した赤軍・第二極東軍が占守島に上陸、日本軍・第五方面軍第91師団と交戦した。8月21日に停戦したが、4日間の戦闘でソ連側が1,567名、日本側が1,018名の死傷者(ソ連側資料)を出した。日本側資料ではソ連側が約3,000名、日本側が約600?700名の死傷者とされている。

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スターリンは占守島を1日で占領し、余勢を駆って北海道の東半分(留萌から釧路を結ぶ線)を占領する予定であったが、予想外の抵抗を受けた(日本降伏直後、スターリンはトルーマンへの電報の中で、ソ連軍による千島列島と北海道北半分の占領作戦準備を始めたが、北海道に関してはヤルタ協定に含めていなかったため、トルーマンに拒否された)。占守島の日本軍武装解除は8月23日と24日に行われた。千島の攻略は樺太を見ながら行い、8月26日に松輪島を、8月28日から8月31日に得撫島を占領したが、第二極東軍は択捉島に一度近づきながら、その先に進まなかった。

択捉島以南(南千島)の占領は、8月28日に樺太制圧が終了した第一極東軍を転用した。南千島占領部隊は8月26日に大泊を出航し8月29日に択捉島を占領、9月1日に国後島と色丹島に上陸し、9月2日に日本が正式に降伏する間も軍を進めたが、両島の制圧には9月4日まで費やした。9月5日に歯舞群島を占領して一連の計画は完了したが、占守島侵攻で時間を費やさなかったら北海道も侵略されていたと見る者もいる。 ソ連占領地域は北海道との交通を遮断され、千島列島住民は本土への帰還ができなくなり、駐屯していた日本軍は武装解除の上、スターリンの指示でシベリアの収容所に連行された(シベリア抑留)。また、ソ連は占領地にロシア人を送り込み、日本住民の個人資産を次々に接収していった。アイヌを含む千島住民の一部は残留の強い働きかけを受けたものの、1947年(昭和22年)にほぼ全員が本土へ引き揚げることとなった。朝鮮籍の住民は日本引き揚げを認められず、彼らと結婚したものなど一部残留を希望する日本人は引き揚げなかった。

現在
1951年(昭和26年) - サンフランシスコ講和条約が締結され、日本が千島列島を放棄する
日本政府の主張では、同条約による「千島列島」には、日露和親条約で国境を定めた択捉島以南の南千島は含まれないとされている。これらの島々は北方領土と呼ばれ、ロシアからの返還が求められている。

また、同条約では放棄した千島列島の帰属先が明記されていないことや、そもそも条約にソ連が署名していないことから、南樺太および中部・北部の千島列島はロシア領土にはあらず帰属先は未定であるとしている。しかし、ソ連は同条約において、日本が得撫島以北の千島列島だけを放棄すると明言してはいないことや、ヤルタ会談、ポツダム宣言、カイロ宣言、降伏文書、国連憲章第107条、マッカーサー命令、日ソ共同宣言などを根拠として、ソ連による全千島の領有は正当だと主張している(しかし、また日本政府の公式見解としてこのヤルタ会談での秘密協定は国際法に違反)。

事実上、日本以外の多くの国は南樺太および中部・北部の千島列島についてはロシアの領有権を認めている。

北方領土については、中華人民共和国のように「日本の領土であるが、ロシアの占領下にある」との立場を取っている国もある。欧州議会は、2005年(平成17年)7月7日に、北方領土を日本へ返還するようロシアに求める決議を採択した。

日本共産党は、全千島列島が樺太・千島交換条約で平和裏に日本の領土になった経緯をもって、全千島列島の返還を主張している。

2009年04月06日

スリップ・ジグ

スリップ・ジグ(Slip jig)とは、9/8拍子(伝統的に、四分音符 - 八分音符 - 四分音符 - 八分音符 - 付点四分音符)のアイルランド音楽およびアイリッシュ・ダンスの1形式。リール(Reel)、ジグ、ホーンパイプと並ぶ4大アイリッシュ・ステップダンス(Irish stepdance)の1つ。

概要 [編集]
スリップ・ジグはソフト・シューズを履いて踊る。現在では男性も踊るが、昔は女性だけが踊るものだった。スリップ・ジグはかかとをかなり高くし、しとやかに・控えめに踊られ、しばしば「アイリッシュダンスのバレエ」とも呼ばれる。リールやダブル・ジグほど一般的ではないが、スリップ・ジグのケーリー(Céilidh。歌と踊りの集い)もある。

そのタイミングのため、同じ数の小節を演るのに、スリップ・ジグはリールより時間が長い。アイリッシュ・ステップダンスの競技会では、113拍/分のテンポは他のダンスと同じだが、各小節は長く、48小節の代わりにダンサーは40小節(各2.5ステップ)を踊ればいい。ステップダンスの審査は足の滑らせ方、床を滑るように見える優雅な動きが好まれる。

スリップ・ジグのタイミングは、ケーリー・ダンスの中の『Strip the willow』にも使われている。この曲は、ゆったりしたアイリッシュ・ステップダンスの曲と対照的に、ペースが速く生き生きしている。

アイルランド以外で9/8拍子のダンスというと、スコティッシュ・ハイランド・ダンス(Scottish highland dance)の「Scottish Lilt」や、ターキッシュ・ダンス(Turkish dance)のカルシュラマ(Karşılama)がある。

スチック プロパ セッター スロープ サブセ ソンソ キラウエ くるくる デイユース ニクロム ルーガル ドードー トリコロ マリン ハイチ キュー ナビユー ワンダラー カバレ ファイト さやえん カスミソウ グラフ ラードツ リング シンプル パイロー サイン ワーク ワイヤ スペルラ ファイラー スペアイト ナビドウ クトリン スープ ドット スイート 弥生姫 クレド タフネス ダーク フレーバ アッラー フロー リキッド クチュリ フォア ザンス ファイブ

2009年03月22日

養生(ようじょう)

中国の思想で生を養う、すなわち人間の身体を整える事。転じて、健康を保つことや、傷病を治癒するために保養すること。
建築・土木でいう養生(curing, cure)
部材の保管・輸送のときに、雨や風などの外部作用から保護し、傷や汚れが付かないように、ブルーシートなどで覆うこと。
塗装工事などにおいて仕上げ部分以外に余分な塗料が付着しないように、シートを敷いたり、テープを貼って防ぐこと。マスキング(masking)とほぼ同じ意味で用いられるが、厳密には区別されることもある。以下で「塗装における養生」として説明する。または、そのときに使われる養生資材(マスカー)、または養生テープ(マスキングテープ)のこと。
工事で打ち終わったコンクリートやモルタルを保護し、充分に硬化させるための作業。以下で「コンクリート施工における養生」として説明する。
ファナテ ピータ ロール ネット ズック リゾラバ 君の瞳 バラブル ハンズ グラジ カナル ウェア ポテト イオン トッピグ タイペイ ライボー ナビスカ セリング サーマル リシン ぐんじょ かぼちゃ ワラビ ジェトロ 中葉春菊 てつむぎ スケボー ヨセミ カノ最新 カーゴ たかのす クチン マツバ 紅葉坂 リミット セイウチ 曼珠沙華 ブレード ワンマ イエロー スクリ キラー ヒュー フリージ スチナ さいさく パピル ライク キッズ

塗装における養生 [編集]
塗装における養生(マスキング)は、塗装面以外の面に塗料がかからないようにシートやマスキングテープなどで覆うことをいう。マスキングテープには各種の幅のものが販売されておりシート付きのものもある。塗装面や工作物を傷めてしまうため粘着力の強い粘着テープ(ガムテープやセロハンテープ)を養生に用いることは禁物である。塗装面以外の面を保護するためにも養生は塗装前に確実に施しておく必要があり、施した養生は原則として塗装の直後に取り外す必要がある(塗料が乾いた後だと養生を取り外した際に一緒にはがれ落ちてしまうことがある)。

コンクリート施工における養生 [編集]
コンクリート施工における養生は、コンクリートを施工するに当たり必要となる温度・防水などの管理のこと、またそれを行うことをいう。

コンクリートの施工の際は、充分に硬化するまで常に一定以上の温度、規定の水分含有量で保つ必要がある。たとえば冬季の施工においては、水分が凍結するような状態でそのまま施工すると、品質が均一にならず必要な強度が得られない。また、大雨などで一定量以上の水分が加わると、主に表面が水分過多となってぼろぼろになってしまう。これを防ぐために、周囲をブルーシートなどで囲い、練炭やジェットヒーターなどを用いて付近の温度を一定以上に保つことをさして養生という。なお、冬季施工の場合は速乾性のコンクリートを使用する、プレキャスト工法を利用するという選択も考慮すべきである。

2009年03月07日

ボルチモア (防護巡洋艦)

ボルチモア (USS Baltimore, C-3/CM-1) は、アメリカ海軍の防護巡洋艦。艦名はメリーランド州ボルチモアに因む。その名を持つ艦としては4隻目。

艦歴
ボルチモアは先のチャールストン (USS Charleston, C-2) 同様、イギリスのアームストロング・ミッチェル社で設計が行われた。1887年5月5日にペンシルバニア州フィラデルフィアのウィリアム・クランプ・アンド・サンズ社で起工し、1888年10月6日にセオドア・D・ウィルソン夫人(建造主任セオドア・D・ウィルソンの妻)によって命名、進水、1890年1月7日に艦長W・S・スライ大佐の指揮下就役した。
マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

ボルチモアは1890年5月24日に北大西洋戦隊の旗艦となり、8月15日から23日までかけてジョン・エリクソンの遺体をニューヨークからスウェーデンのストックホルムまで運搬した。ヨーロッパ海域および地中海を巡航した後、1891年4月7日にチリのバルパライソに到着、南太平洋ステーションに加わる。ボルチモアはチリ革命に際してアメリカ人を保護し、8月28日にはバルパライソに部隊を上陸させた。1892年1月5日にメア・アイランド海軍工廠に到着、ボルチモアは10月7日まで西海岸を巡航し、続いて大西洋に戻った。1893年3月から4月にかけてハンプトン・ローズで巡航および海軍の観閲式に参加した。ボルチモアはスエズ運河を経由し、アジアステーションの旗艦として1893年12月22日から1895年12月3日までアメリカ合衆国の権益を保護するために巡航した。1896年1月21日にメア・アイランドに帰還し、1896年2月17日に予備役となる。

1897年10月12日に再就役したボルチモアは10月20日にハワイ諸島へ出航し、1897年11月7日から1898年3月25日まで同地に留まる。その後1898年4月22日に香港でジョージ・デューイ代将率いる戦隊に加わった。戦隊は4月27日に大鵬湾を出航しフィリピンに向かい、5月1日の朝にマニラ湾入りし、同湾に停泊していたスペイン艦隊に対して攻撃を行った。ボルチモアはオリンピア (USS Olympia, C-6) に続いて2番目にマニラ湾入りした(マニラ湾海戦)。その後ボルチモアはアジアステーションに留まり、1900年5月23日まで船団警護などの任務に従事した。ボルチモアはスエズ運河を経由してニューヨークに1900年9月8日に到着した。

1900年9月27日から1903年5月6日までボルチモアはニューヨーク海軍工廠で予備役状態で保管された。1903年8月5日から12月23日まで北大西洋艦隊カリブ海戦隊で活動し、夏にはメイン州沖合での艦隊演習に参加、8月15日から17日にかけてニューヨークのオイスター・ベイで行われた大統領による観閲式に参加した。1904年5月28日から8月26日までサントドミンゴ水域で活動し、ヨーロッパ戦隊に配属、地中海を巡航した。9月26日にイタリアのジェノヴァを出航、アジアステーションに向かい、続く2年をフィリピン、オーストラリア海域で活動した。

ボルチモアは1907年4月24日にニューヨークへ帰還し、1907年5月15日にニューヨーク海軍工廠で予備役となる。1911年1月20日に限定就役状態でとなり、1911年1月30日から1912年9月20日までチャールストン海軍工廠で新兵収容艦としての任務に就く。1913年から1914年にかけてチャールストン海軍工廠で機雷敷設艦への改修が行われ、1915年3月8日に再就役した。1915年から1918年の間に、ボルチモアはチェサピーク湾および大西洋岸沿いに機雷敷設実験および訓練に従事した。

アメリカ合衆国が第一次世界大戦へ参戦した当時、ボルチモアは兵員の訓練任務に従事していた。1918年3月初め、ボルチモアはアイルランド北方のノース海峡で機雷敷設の支援を担当した。3月8日にクライド川に到着し、4月13日から5月2日までの間に、ノース海峡におよそ900個の機雷を敷設した。6月2日、ボルチモアはスコットランドのインヴァネスで第1機雷敷設戦隊に合流し、4ヶ月にわたってオークニー諸島とアイスランド間の北方機雷原敷設任務に参加した。

1918年9月28日にボルチモアはオークニー諸島のスカパ・フローから出航し帰国の途に就く。その後年末までバージン諸島の近くで機雷敷設試験を行った。

1919年9月、ボルチモアは太平洋艦隊に加わり、CM-1 (機雷敷設艦)に艦種変更される。1921年まで西海岸で留まり、その後真珠湾に移動、1922年9月15日に予備役となる。真珠湾で新兵収容艦としての任務に就き、1941年12月8日の真珠湾攻撃時には任務の途中であった。ボルチモアは1942年2月16日に売却され、スクラップとして廃棄された。

2009年02月18日

望遠鏡

望遠鏡(ぼうえんきょう)とは、遠くにある物体を可視光線・赤外線・X線・電波などの電磁波を捕えて観測する装置である。古くは「遠眼鏡(とおめがね)」とも呼ばれた。観測に用いられる電磁波の波長により、、光学望遠鏡と電波望遠鏡に大別される。また、電磁波を捕える方式による分類では、反射式望遠鏡と屈折式望遠鏡がある。
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電磁波の波長により、可視光で観測するもの、短波・長波などの電波で観測する物などがある。また、可視光でもフィールドでの観測を目的とした物にはフィールドスコープ、ナイトスコープ、双眼鏡などがある。また、地球の衛星軌道上にも衛星を使った望遠鏡が稼動中。今後は、惑星軌道系にも、宇宙観測を目的にした望遠鏡が稼動する予定。

光子、ニュートリノ、重力子としての粒子及び電磁波、ニュートリノ、重力波の波長領域を観測する装置全体を一般には望遠鏡と呼ぶ。特に、遠くにある物体が放つ、それらの粒子・波長を用いて物体像を拡大して観測を行うことを目的に、設計・製造された装置を狭義の望遠鏡とする。また、粒子の検出装置も狭義の望遠鏡とする事がある。

望遠鏡とは、カメラのレンズと同じようなものであると思えば分かりやすい。ただし口径の大きな対物レンズ(反射式においては反射鏡)と口径が小さい接眼レンズに分かれる。対物レンズは凸レンズであり、接眼レンズが凹レンズであれば正立像が得られる。これは一眼レフ方式のカメラのファインダーと同じ構造である。望遠レンズのように焦点距離が長い対物レンズを使うと、大きな像が得られる。接眼レンズを凸レンズにすれば倒立像となるが、さらに大きな倍率が容易に得られる。これをそのまま天体に向ければ天体望遠鏡となる。

望遠鏡を望遠鏡たらしめているメインパーツはその光学系である。光学系の個々のパーツ(光学素子:レンズや反射鏡など)を支える機構を「光学系支持機構」と呼ぶ。光学系支持機構には、望遠鏡の姿勢変化、温度変化、風向・風速の変化などが起こっても光学素子にゆがみを与えないことが求められる。望遠鏡光学系をその支持機構ごと支え、天球上の任意の位置に向ける装置を「架台」と呼ぶ。架台はスムーズに駆動し、長時間にわたって高精度で天体を追尾できなければならない。天体が発する光は、一般に非常に弱く、詳しい分析に耐えるほどの光量を集めようとすれば、大望遠鏡を持ってしても何時間の露出が必要となることが珍しくないからである。近年、より深く宇宙を探査するために、ますます大型の望遠鏡や観測装置が必要とされるようになってきている。

大望遠鏡においては、巨大な光学素子をいかにコンパクトで軽量かつ堅牢な架台で支えるかが重要となってくる。架台がコンパクトで軽量になるほど、その駆動機構への負担が軽減され、望遠鏡全体を覆うドームや建物などの建設コストも下げることができる。また、架台の堅牢性の向上にも繋がり、指向・追尾性能を向上させることにもなる。架台のコンパクト化を図るためには、反射望遠鏡においては、その主鏡の焦点口径比(F比)を小さくし、明るい光学系とすることが肝要である。近年の大望遠鏡は、F比の小さい主鏡を製作する技術が進歩したことによって、建設が可能となったとも言える。例えば、岡山天体物理観測所の188cm望遠鏡(1959年製作)の主鏡はF比4.9であるが、すばる望遠鏡(1999年製作)では主鏡F比は1.8となっている。

歴史
ナポリのジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ(Giambattista della Porta 1535年 ? 1615年)の『博学史』(1589年、20巻)の17巻の10章が望遠鏡についての記述がある(このことはヨハネス・ケプラーの『屈折光学』(1611年)にもデラ・ポルタが20年前に望遠鏡を発明した記述されている。)。ネーデルラント連邦共和国のベックマン(ヤンセンの息子サカリアセンからレンズ研磨を習った)の日誌によると、1604年にミデルブルフの眼鏡職人ツァハリアス・ヤンセンがイタリア人の所有の1590年と書かれた望遠鏡を真似て作ったという。シルトリによると自分の客から作り方をならったオランダ、ミッテルブルフの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイ(ハンス・リパシューとも、Hans Lippershey 1570年 ? 1619年)が「kijker」と命名した2枚のレンズ組み合わせた望遠鏡について1608年10月2日、特許申請をオランダ総督にした。10月14日にはAlkmaarのJ.アドリアンスゾーン・メチウス(Adriaanszoon Metius 1571年 - 1635年 1598年からフラネカー大学教授)が特許申請を行なった(2年間改良していたという)。この同時申請のため特許はどちらにもおりなかった。リッペルスハイは双眼望遠鏡も作り、またマウリッツ総督の命により900フロリンで軍用望遠鏡を作った。

日本においては近藤正斉の『外藩通書』によれば1613年(慶長18年8月4日)に「慶長十八年八月四日、インカラティラ国王ノ使者於駿城御礼申上ル…長一間程之遠眼鏡六里見之ト見ユ」とあり、イギリスのジェームズ1世 (イングランド王)の使いジョン・セーリスが徳川家康に献上のもの(現徳川美術館所蔵)が最古とされる。

天体観測
1672年アイザック・ニュートンが王立協会に提供した望遠鏡の複製品。
ウィリアム・ハーシェルの望遠鏡
ガリレオ・ガリレイはリッペルスハイの発明を知った後1609年5月に1日で作った望遠鏡を初めて天体に向けたものである。そのころの接眼レンズは凹レンズで正立像だが、倍率は低いものであった。その後は、目の能力を拡大するために、様々な光学の要素技術開発にともない、様々な種類の天体望遠鏡、フィールドスコープ、双眼鏡等が開発された。19世紀から20世紀にかけて発達した写真技術を使い、肉眼での観察から、より客観的な測定ができる天体観測が行われるようになった。20世紀に入って、電子工学の発展に伴い、光学系としての望遠鏡に附属する観測装置の開発が進んだ。光電効果を利用した光電測光器による光電測光技術が発達し、マイクロチャンネルプレートなどを使ったイメージインテンシファイアが誕生した。現在ではCCDイメージセンサを冷却して撮像する冷却CCDカメラによって100%近い光子を検出できるようになった。また、電磁波領域におけるレーダーや宇宙通信等の測定装置開発から、電波望遠鏡が誕生した。そして、宇宙技術の進展に伴い、人工衛星として宇宙空間に設置する宇宙望遠鏡へと発展を遂げた。それらの要素技術との組み合わせによって、ニュートリノ望遠鏡、重力波望遠鏡等も生まれ、21世紀初頭の現在、全ての波長に対する観測装置が出揃うことになった。

種類
天体望遠鏡 天体を観察/観測するため作られた望遠鏡。分解能と集光力の両方の性能が重視される。おおまかに分けて、屈折式と反射式の2種類があるが、それぞれ一長一短がある。
フィールドスコープ 小型の望遠鏡に正立プリズムを付け、鳥や動物、地上風景などを主に観察・観測する物。軽量で防水設計になっていたり、機種によっては手持ちで使う事を考慮してあったりと、取り扱いが簡単になっている事が多い。
ナイトビジョン 淡い光を電気信号などにて増強するもの。軍事用などで使われる、ほぼ等倍率のものから、天体望遠鏡に取り付けて使うカメラタイプのものまで各種ある。
双眼鏡 基本的にはフィールドスコープを2つ並べて立体視できるようにしたものと考えて良いが、天体望遠鏡を2つ並べて、天体を見る事を前提に作られたものもある(双眼望遠鏡と呼ぶ事が多い)。
電波望遠鏡 宇宙からやってくる微弱な電波を捉える望遠鏡。多くはパラボラアンテナの形をしている。
宇宙望遠鏡 軌道上に打ち上げられた望遠鏡。地球大気による電磁波の吸収や像の揺らぎがない。

研究観測で利用している望遠鏡の例
ハッブル宇宙望遠鏡すばる望遠鏡(国立天文台、マウナケア天文台群)
ハッブル宇宙望遠鏡(アメリカ航空宇宙局、宇宙望遠鏡研究所)
ALMA(国立天文台、アメリカ国立電波天文台、ヨーロッパ南天天文台)
スーパーカミオカンデ(東京大学宇宙線研究所)
TAMA300(国立天文台)
近年の傾向として、研究用望遠鏡は大型化が進んでいる。全宇宙には1000億を超える銀河があり、その各々の銀河には、1000億から1兆もの太陽と同じ恒星が含まれている。遠い天体では、100億光年以上の距離があり、近い銀河でも16万光年〜20万光年(大マゼラン星雲・小マゼラン星雲)もの距離がある[1]。多くの銀河をサーベイして、突発天体現象を捉えたり、銀河の距離を求めたり、太陽系に存在するエッジワース・カイパーベルト天体や準惑星(英:Dwarf Planet)を観測[2] するなどの用途では、非常に微弱な光を捉えて、正確かつ精密な観測が必要になったことが望遠鏡の大型化の理由である。

研究用望遠鏡の場合には、過去は国家プロジェクトとして、近年は国際プロジェクトとして行われているため、大型化する傾向になっているともいえる。上記の他にIRASやWMAP、さらには惑星探査機や国際宇宙ステーションで予定されている観測なども研究用望遠鏡の区分に入ることになる。また、マウナケア天文台群やヨーロッパ南天天文台なども、国際プロジェクトとして計画され、運用が行われている望遠鏡群である。

VSOP-?計画やジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡、TPF(Terrestrial Planet Finder)など今後の宇宙望遠鏡計画や惑星探査計画は、より国際性の高いプロジェクトとして行われることが予想されている。

研究観測以外で一般観望にも用いられている望遠鏡の例
なゆた望遠鏡(有効口径200センチ)。西はりま天文台にて観測運用が行われている。
150センチ反射式望遠鏡(有効口径150センチ)。群馬県立ぐんま天文台に観測運用が行われている。
6連式太陽望遠鏡。川口市立科学館にて観測運用が行われている。
105センチ反射式望遠鏡(有効口径105センチ)。石垣島天文台にて観測運用が行われている。
公開天文台[3]では、多くの場合15??25?口径の屈折式望遠鏡、もしくは、30??60?口径の反射式望遠鏡が多い。このくらいの口径だと、観望会などにおいて観察対象となる太陽(太陽黒点・日食)・月(月面のクレータ・月食)・惑星(金星・火星・木星・土星)・メシエ天体などの観察に適しており、比較的低コストで導入が可能なため、多くの公開天文台では導入が行われている。比較的大型の望遠鏡を持つ公開天文台は、研究観測なども行われている。

また、私費により建設された公開天文台や企業がメセナ活動として支援して出来た天文台などもある。

学校教育用として固定されている望遠鏡としては、上にあげた15?口径の屈折望遠鏡が主流である。教育学部等で用いられている望遠鏡としては、40??65?口径の反射式望遠鏡が多い。大型の観測施設を保有する私立学校などもある。

近年開設された公開天文台の望遠鏡にも、「冷却CCDカメラ(他には、スーパーハープ管[5]を搭載したカメラがあるけれど、公開天文台では採用例が無い)」や「エシェル分光器(高分散分光器)」、「マグネトログラフ(太陽表面の磁場活動を可視化する装置)」などの高度な機器が搭載され、観察のみならず観測が可能になっている。また、各公開天文台毎に、特色のある機器が搭載されていることもある。 これらの天文台では研究分析用にも優れた観測データを提供している。

アマチュア向け望遠鏡

口径80mm屈折経緯台望遠鏡ここで、「アマチュア向け」とは、一般の個人が趣味のために所有する物と定義する。

鏡筒について
屈折式望遠鏡は口径5??15?程度、反射式望遠鏡(カタディオプトリック式含む)は口径10??40?程度が主流である。

屈折式
対物レンズの形式により、アクロマート、アポクロマート、セミアポクロマートの三種に大別される[8][9]。

1.アクロマート

昔から存在する形式である。昔は高級品も存在したが、現在では主に入門機用である。

2.アポクロマート

中級からハイエンド向けまで[10]。 現在アポクロマートという名称で販売されているほとんどは、2枚玉?4枚玉[11]のED[12]アポクロマートまたはフローライトアポクロマートである[13]。

3.セミアポクロマート

70年代に製造が盛んであったが、80年代にEDアポクロマート等が登場[14]した後、一旦消滅してしまった。近年、新たな硝材を使用することにより再登場している。

反射式及びカタディオプトリック式
市場で流通している主な物は、ニュートン式、ドールカーカム、シュミットカセグレン、マクストフカセグレン、マクストフニュートン、そして各メーカー独自のデザイン(イプシロン式、リッチークレチアンの変型等)である。カセグレンは、形式は有名であるが、製造困難なため実際にはほとんど作られていない[15]。

1.ニュートン式

古今通じて、反射式を代表する形式である。放物面鏡と平面鏡の組み合わせというシンプルな造りで、大口径の物や高精度の物を作りやすい[16]。

なお、接眼部が鏡筒の上部にある形状のため、誤って鏡筒を上下逆さまに(鏡筒を地面を向けて)設置している写真が数多く見られる。望遠鏡の接眼部は鏡筒下部に付いている物という先入観があるためである。

2.ドールカーカム

カセグレンの最大の問題は、副鏡に製造困難な双曲面を使うことである(このため製造だけでなく、さらに組立まで困難となる)。 そこで、副鏡に球面鏡を採用したのがドールカーカムである(この場合、球面収差を消すために主鏡に楕円面を採用することになる)。 ただし、コマ収差がカセグレンより大きいという欠点がある。

3.シュミットカセグレン[18]

副鏡と主鏡共に球面鏡を採用し[19]、それだと当然球面収差が生じるので、それを除去するために補正板を加えたのがシュミットカセグレンである。

補正板の量産化に成功したメーカーから、安価で大口径な物が供給されている。現在最大のシェアを占める形式と言われる。

4.マクストフカセグレン、マクストフニュートン

シュミット補正板は一部メーカーにより量産化に成功しているとはいえ、複雑な非球面になっており誰でも簡単に作れる物ではない。そこで補正板の代わりにメニスカスレンズを採用した物がマクストフカセグレンないしマクストフニュートンである。

もっともメニスカスレンズは製造は容易といっても、厚い硝材を必要とし高価になるために従来はあまり作られていなかった。そこへ硝材の安いロシアで作られた物が登場し、それ以来市場において有力な存在となった。

5.その他の形式 ビクセンのVISAC、VMC、高橋製作所のイプシロンが有名である。

架台について
過去においては、架台は各鏡筒専用に用意されるものであった。しかし、70年代後半頃から鏡筒の取り替えが可能な架台が作られるようになった。このような架台はシステム型架台と呼ばれる[20]。

また、当初は各メーカーばらばらだった鏡筒と架台との取付方式が、近年では一定程度共通化され、メーカーの異なる鏡筒と架台との相互の取り替えが比較的自由になっている[21]。

経緯台
過去においては専ら初心者用であったが、近年コンピュータコントロールによる自動追尾・自動導入が可能になってから高級機にも採用されるようになった。システム型になっている物もあるが、架台の形状の関係から専用型架台とする物も多い。


大部分がドイツ式である。また、そのほとんどはシステム型である。

組み立て式望遠鏡
天文教具として、誰でも手軽に組み立てられる望遠鏡が考案されている。レンズや反射鏡の研磨には、高度な熟練の技術が必要なため、レンズ・反射鏡・アイピース(接眼鏡)・鏡筒をセットにした教材が販売されている。 趣味用だけではなく、天体観望用の解説書や星座早見環(鏡筒部に印刷された星図に、時刻や日付を合わせると、天の子午線上にある天体を見つけやすくするための、簡易星座早見盤)などもあるので、初めて天体観測や天体観望を行う人にもわかりやすい製品。

国内での主な初心者向けの、組み立て式望遠鏡を製造・販売している会社のリンクを参考までに示す。

オルビィス株式会社テレスコハウス(望遠鏡ショップ)。コルキット。屈折式天体望遠鏡と反射式天体望遠鏡。
大人の科学.net学習研究社刊、大人の科学マガジン。Vol.11及びVol.19が天体望遠鏡。
星の手帖社世界天文年日本委員会と共同開発した小型屈折式天体望遠鏡。15倍と35倍の2種類。
他には、ドブソニアン式天体望遠鏡などがある。詳しくは、天体望遠鏡を参照。

付記)オルビィス社製のコルキットは、以前はキング商会(キングジム=キング事務機器とは別会社)として事業を営んで居た頃からの製品。口径は5?の屈折式と10?の反射式のキットからなる。解説書が添付されているので、小学校高学年以上の人には組み立てられるはずということで、「子供の科学」などでも紹介されていた(1970年代の話)。「大人の科学」は出版社が異なり、以前は学校などで教材販売として、その後教具販売として行われてきた学習研究社の「科学と学習」誌からの延長線上に存在するマガジン。それこそ、10分程度で製作できる科学実験器具から1時間程度の製作時間を要するキット群からなる。最後の「星の手帳社」の場合には、ガリレオ式の再現を目指した望遠鏡キット。団体販売を目的にしているため、団体では20ドルで購入できるようにして開発(最大の目的は、途上国などで理科教育支援などを行う青年海外協力隊や国内の科学館で行う天体教室向けの製品)。個人販売は、「星の手帳社」から直販の形になる。

2009年01月28日

手取川の戦い

手取川の戦い(てとりがわのたたかい)は、天正5年9月23日(1577年11月3日)に加賀国の手取川において上杉謙信軍が織田信長軍に大勝したとされる合戦。
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記録が少なく実像が不明確な事から、その帰趨(上杉軍大勝)や規模については議論がある
天正4年(1576年)、越後国の上杉謙信は能登国を支配下に置くべく、2万余の軍を率いて侵攻した。これに対し当時の能登の領主能登畠山氏(当主幼年のため重臣の長続連が実権を掌握)は七尾城に籠城する。七尾城は北陸でも屈指の堅城だったため、戦いは翌年までもつれこんだ。

長続連は上杉軍に対抗するため、百姓や町人までも城内に収容していたが屎尿処理能力が追いつかず、城内各所で糞尿が放置される極めて不衛生な状態となり疫病が発生。当主畠山春王丸までもが病死するに至り、畠山軍は危機的状況に陥った。

続連は、かねてから誼を通じていた織田信長に救援を求めるべく、息子の長連龍を使者として安土城に派遣した。信長としても謙信の勢力拡大は望むところではなく、即座に援軍の派遣を決定し、柴田勝家を総大将に1万8000の軍勢を先発させ、自らも3万の軍勢を率いて出陣した。

ところが織田軍到着前の9月15日(10月26日)、以前より続連が実権を握る事に不満を抱いていた遊佐続光、温井景隆ら親上杉派が内応して謀反、続連をはじめとする長一族は皆殺しとなり、七尾城は落城した。

上杉軍 対 織田軍
柴田勝家率いる織田軍先発隊は七尾城落城を知らないまま進軍を続けたが、途中で以前から勝家と不仲だった羽柴秀吉が、意見の対立から勝手に離陣するなど、すでに内部統制が乱れていた。

一方、織田軍接近を知った謙信は、直ちに七尾城を出撃、手取川付近にあった松任城に入った。対して、勝家は全軍が手取川の渡河を終えた所で初めて七尾城落城と謙信軍の松任城入城を知り、即座に撤退を下命したが、上杉軍の追撃を受け、千余人を討ち取られ、この時、河川の増水で溺死するもの多かった。

影響
この合戦で織田軍は大敗、柴田勝家らの有力武将は全員無事であったものの、信長は謙信の存在を恐れたという。

この合戦を「さほどの規模ではない夜襲に過ぎない」とする見解もあるが、柴田勝家配下の前田利家、佐々成政、佐久間盛政の北陸方面軍の他、丹羽長秀、滝川一益、さらに(途中離脱したが)羽柴秀吉まで加えた織田軍主力が加賀へと軍勢を進めながら、不利が重なったとはいえ、戦わずして退却したのは事実である。信長の北陸侵攻は、翌年の謙信の死とそれに続く内乱(御館の乱)に乗じて再開されるまで停滞した。

一方この大勝により、能登から加賀国の大半を支配下に置いて、対織田の優位を得た謙信は、翌年3月に上洛を開始(一説に、関東の北条氏政征伐のためとも)しようとしたが、その直前に病死、上洛は実現を見なかった。

大局的にはこの状況を受け松永久秀が信貴山城で反旗を翻している(信貴山城の戦い)。武田信玄の死後、劣勢に立たされていた信長包囲網の勢いは謙信の死まで一時的に盛り返した。

上杉謙信伝(布施秀治著・大正6年)には、「上杉に逢ふては織田も名取川 はねる謙信迯げるとぶ長」という落首が紹介されている。

戦いの規模に関する議論
歴代古案の上杉謙信の書状一通(ただし、原本は現存せず、写しのみ)を根拠に、上杉謙信公略履歴(上杉茂憲著・明治24年)に簡潔な概略が記載されている。ここには、信長が出陣し、逃げ帰ったことになっている。狂歌は掲載されていない。著者の上杉茂憲は、最後の米沢藩主。

しかしながら、合戦があったとされる当日は、信長公記に記録がない。天正5年8月8日に、柴田勝家軍が手取川を越えて、焼き討ちを実行した、秀吉が勝手に帰陣した、という簡単な記述があるのみで、9月23日よりも前のことである。上杉謙信が出陣したなどの上杉方の動向の記述は一切ない。

また、上杉謙信伝(布施秀治著・大正6年)には、信長公記の記述を引用して、秀吉が勝手に帰陣したのを、上杉に恐れを成して逃げ帰ったことに摩り替えられている。その後、歴代古案、本朝戦国策を出典として、謙信の発言(書状の内容)と狂歌が紹介されている。謙信が信長を破った最初で最後の合戦と締め括られている。

長家家譜には「手取川の戦い」にあたる内容は記されておらず、七尾城への援軍として織田勢4万が出陣したが落城の報に接し、戦わずして帰陣したと記されている。

新潟大学の井上鋭夫の「一向一揆の研究」(吉川弘文館)では、織田軍が手取川近くでの粟津口に勝利した事が「北徴遺文」で天正5年9月14日の感状として残されており、実際に9月19・20日に織田と上杉方が遭遇した可能性が高い事(謙信書状は9月19日付け、関東の結城氏宛)、天正5年9月25日(井上注あり)に謙信方についた刑部卿法眼頼兼が能美郡の旗本宇津呂丹波の内者であった堀才助宛に夜襲における感状を給付しているため、織田と上杉方の間で夜戦があった事が確認されている。 なお、「北越軍記」には謙信が越前丸岡城下に進出した記載があるが、井上は謙信の9月19日付歴代古案の書状に9月26日に七尾城に還り能登の仕置きを命じたとの記載があるため、これと「北越軍記」の記述があわず、謙信軍の本隊は能登に班軍したとの見解を示している。これについて福井県史では天正5年10月に入っても越前国で上杉方についた一向一揆衆と織田方との争いがあった事が紹介され、上杉方が加賀南部から越前までその勢力をのばしたものと推察している。 またこの戦いを期に、加賀北部の一向衆の上杉家被官化が進んだ事が、謙信が作成した天正5年12月23日の動員名簿(上杉家文書)に加賀衆の藤丸新介(勝俊)も含まれる事、また後に柴田勝家による魚津城攻めの際に、若林九郎左衛門など加賀衆が魚津篭城戦で奮戦したことが中条家文書に見えていることから、能登・加賀の上杉方の掌握、国人、一揆衆の被官化がもたらされたことが確認できる。ただし佐久間盛政に御幸塚、大聖寺城の普請を申し付けたことが信長公記にはあり、少なくとも加賀南部の一部はまだ織田方にあったと考えられる。これについては加賀の富塚荘を領した柴山氏が後溝口秀勝に属して越後新発田に随従しており、手取川の戦いの後も国侍で織田になお従うものがいたことがわかる(井上)。さらに「北越軍記」には大聖寺城が上杉方によって陥落し、柴田勢は北ノ庄に撤退した旨があるが他の文書では確認できない。佐久間盛政の加賀での仕置きについて更に検討を要する。

(注)「北徴遺文」における天正5年9月25日の感状

今度夜討之刻、首討捕高名之旨、具遂披露候。御感被思召候通、能々可申舌旨被仰出候。向後弥々可被抽忠節事 肝要候。恐々謹言。 天正5年9月25日(井上氏注釈) 刑部卿法眼 頼兼判 堀才助殿

手取川の戦いを取り上げたメディア
NHK『その時歴史が動いた』の「謙信恐るべし」(平成19年7月18日放映、平成19年7月24日アンコール再放送)にて、CGによる再現図を交えながら検証された。
NHK大河ドラマ『武田信玄』の最終盤、信玄の死後の話が語られる部分で、謙信の猛攻に恐れをなして退却する信長が描かれている。

2009年01月20日

Scientific Revolutionとは歴史学者ハーバート・

科学革命(かがくかくめい)と和訳する概念には、次の2つがある。

英: Scientific Revolutionとは歴史学者ハーバート・バターフィールドが1949年に考案した時代区分の名称で、コペルニクス、ケプラー、ガリレイ、ニュートンらによる科学の大きな変革と、科学哲学上の変化を言う。
英: scientific revolutionとはトマス・クーンが1.の科学革命を拡張した概念。しかしこの2者の科学革命という言葉の意味や綴り方には大きな違いがある。

H.バターフィールドが考案した英語: Scientific Revolutionは、歴史上ただ1回、主に17世紀に生じた科学の大規模な変革をいう。

バターフィールドの時代、歴史観があまりにもヨーロッパ中心的であるとの批判がされていた。バターフィールドは、科学の上での大きな変革のあった17世紀に時代区分をとり、この批判に応えようとした。科学的真理は世界全体での共有事項であり、これが最も客観的な時代区分であると考えたためである。

この時期に起きた明確な科学の変革はまず、宇宙体系の変革にあった。それ以前の天動説が捨てられ、地動説へと変換する時代であった。こちらの考えによれば、科学革命の中心人物は明確にコペルニクス、ケプラー、ガリレイ、ニュートンの4名である。地動説は、単に惑星位置の計算方法の変更にとどまらず、当時の宇宙観に大きな影響を与えた。

誰にでも再現可能な方法によって自説の正しさを証明する、という方法がとられはじめたのもまたこの時代からである。それ以前は考え方のような哲学的真理が追究され、科学的な証明方法はあまり重要視されてこなかった。ガリレイは球を転がし、振り子を往復させ、読者に同じ実験を再現させることによって自説の正しさを証明した。ケプラーはルドルフ星表を作り、天動説よりも地動説のほうがより精密に惑星の運行を計算できることを明示した。これらの手法は哲学にも大きな影響を与えた。

バターフィールドへの批判
この説が発表されると論議になった。非賛同者の多くの意見は、科学革命の定義は認めるが、バターフィールドによる科学革命への評価は受け入れられないというものだった。このため、後述するクーンの科学革命と区別する際、日本語では「バターフィールドの科学革命」とは書かず、「17世紀科学革命」などと書かれることがある。

第二次科学革命
18世紀の産業革命における、蒸気機関などの科学技術の発展と産業革命に果たした役割を評して、特に第二次科学革命または18世紀科学革命と呼ぶことがある。
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クーンの科学革命
トマス・クーンの英語: scientific revolutionは小文字であり、普通名詞である。クーンは科学者が一定の発想、前提、枠組み、ルールなどに従って研究を進め、できるだけその枠内で問題解決を図る傾向にあるとした。だが、このような試みが行き詰ると、枠組み自体が疑われることになり、混乱期を経て考え方の大幅な変更が起こることになる。これをクーンは科学革命、パラダイムシフトなどと呼んだ。クーンによれば科学革命は歴史上何度も起き、また、現在も起きつつある。クーンによれば、天動説が地動説になった時点だけではなく、ニュートンの力学体系が行き詰まってアインシュタインの相対性理論が生まれた時点もまた科学革命となる。

原語での綴りが違うため、両者を混同する可能性は低いが、日本語ではどちらも同じ綴りになるため、バターフィールドかクーンか、どちらの意味で使われているのか注意する必要がある。

クーンの定義は科学哲学の知識がある人には良く知られているが、一般人には科学革命はやはり17世紀のそれをイメージするであろう。